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☆ゆめママ日記☆

☆ゆめママ日記☆

ゆめ妊娠中のこと:妊娠初期

   妊娠発覚

 生理が遅れてもう二週間。
「もしや妊娠?」
月経周期が、わりとしっかり決まっていて、二週間も遅れたことはなかった私がそう思ったのは、まだ少し寒い二月の末のことだった。三日程度の遅れでも「赤ちゃんできたかな?」と思っては、何でもなくて、生理が来る度に少し残念な気持ちになっていたその頃の私は、「また勘違いかも知れない」と三月に入るまで待った。「できたかも」と思いながらも、バイトに行きながら、カイロプラクティックの全身矯正で骨盤をボキボキやりに行ったり、美容院でパーマをあてたり、まだもちろん確信なんて、ない。ただ後から考えてみると体調はあまり良くはなかった。そしている内に、胸が少し張ってきて痛くなりだした。生理前の現象にそっくりだった。
 三月の初め、彼の休みの日に薬局で検査薬を買った。そして半年ほど前つき合い始めた頃から私が転がり込んでいた彼の部屋のトイレで試した。初めて使う物だったし緊張はしたが、「尿をかけて約一分間水平な場所に置いてください。」と説明書きがあったので、その一分間のうちにドキドキしたり心を落ち着けたりしようと思っていたので、尿をかけた時点でみるみる内にはっきりと濃い印が表れた時はビックリ、検査の失敗かと一瞬思った。ビックリしすぎて思わずトイレの中で叫んでしまった。そして出てきて彼に結果を告げる。「両親に挨拶に行かないとね。」
彼は落ち着いていた。後で聞くと、なぜかだいぶ前からできたような気がしていてもう覚悟はできていたそうだ。しかし私はというと、色々な感情が押し寄せて来て涙が出た。母に、子供を授かるために婦人科に通っていたと聞いたことがあって、思い込みの激しい私は「私も子供が出来にくい体質なんだ」と思い込んでいた。そんな私に赤ちゃんが出来たかも知れない。検査薬は九十九パーセント合っていると書いてあったけれども、でもまだ決まった訳じゃない。嬉しい。とは言ってもまだ未婚。どうしよう。両親は何て言うだろう。メイクの学校もまだ途中だし・・・と、その涙はまだ動揺の涙だった。

 翌日の夜、私は実家にいた。次の日に運転免許の更新に行く予定だったので実家にいたほうが近いからだ。私は病院できちんと診てもらってから親に話すつもりだった。ところが母と二人で向き合って座っていると黙っていられなくなり、検査をして陽性だった事を告げた。母は、それはもう眉間にシワをよせてビックリ。
「エーっ・・・やめてよー・・・。もうちょっとちゃんと考えてると思ってたわ。・・どうするの?」
と、かなり動揺。もちろん
「産む・・・。」
と答えた私。その時点でなぜか大泣きしてしまっていた私は、
「明日病院行ってみるから保険証出しといて。」
と言った。そして「パパにはまだ言えないね。」という事で二人の意見は一致した。
逆上したりせずに「欲しかったの?」とだけ聞いてくれた母に感謝。まだ未婚だし、歳だって二月に二十一歳になったばかりの私。でもそういうふうに聞かれると、ただ素直に、
「うん、欲しかったの。」
と答えることができた。そしてそのまま一週間は、父には言えないまま過ぎたのだった。


レディースクリニック

 産婦人科で診察を受けるのは生まれて初めての事だった。一人では心細かったので友達について来てもらい、地元のクリニックへ行った。人気の病院でかなり混んでいた。
I先生は初老の男性医師。私は検査薬の結果を伝え、
「でも蛋白尿とかでも陽性って出ちゃったりするって・・・」とまだ言っていた。
ここまで来てそんなこと言ったって仕方ないのに。I先生はそんな私を見て微笑し、
「まあ、診てみましょう。」と、内診室へ促した。あの、産婦人科の椅子、足を広げて座る椅子、あれを初めて実際に見るとかなり恐怖心が高まった。覚悟を決めてカーテンのかかったそれに座る。緊張で力が入り、何やら色んな器具が入ってくる。痛くて椅子にしがみついていた。カメラが入って、椅子の横のモニターに子宮の中が映し出された。I先生は
「これが赤ちゃんの入っている袋。で、この小さい白い点が、赤ちゃんです。ピクピク動いてるのわかるかなー?元気です。」
と言った。私はモニターにくぎ付けになり、そしてカーテン仕切られた個室で涙があふれてきた。この時の涙はもう動揺なんかじゃなく、ただ嬉しくて、小さな点にしか見えない自分の子が愛しく、そして感動していた。
 I先生は私が受診前に書いたアンケートを見て
「未婚か。困ったな。どうするんや?」と聞き、
「産みます。結婚もします。」と私は言った。するとI先生は笑顔で
「えらい!」とだけ言ってくれた。それで私は「あー・・・ここで『産まない』ってなる人もいるんだよな・・・」と思ったりした。色々事情はあるのかも知れないけれど、それはとても悲しい選択だと思う。
 実は最終月経はウロ覚えだったのだが、だいたい十月末頃が出産予定日だと聞いた。赤ちゃんの超音波写真をもらい、ついて来てくれた友達に報告。そして彼に電話で報告。複雑な気持ちはあったかも知れないが喜んでくれた。
たばこ、二月の誕生日からやめてて良かったーと思った。今から思えば、あれほどやめられなかったたばこをやめる事ができたのは、もしかしておなかに子供がいたから?と思ったり。でもそれ以前に吸っていたという事を悔やんだり。お酒もかなり飲んでいたし。そんな事を考えても今まで吸ってきたニコチンが私の体に残っているのは明らかで、後悔したってもう遅い。さあ、マタニティーライフの始まりである。

   つわりの始まり

 妊娠初期はつわりとの闘いだった。週に一度のメイクの学校くらいなら平気だと思っていたのは大間違いだった。父にはまだ黙っていたある金曜日、気分が優れなかったので父の出勤時間に合わせて学校まで車で送ってもらった。車内で父と二人きりだったが、やはり言い出せなかった。その日の授業は立ちっぱなし。フラフラだった。吐き気で何度もトイレへ行ったが胃液のようなものしか出ず苦しかった。座らせてもらったりしたのだが、あまりの苦しさにギブアップ。先生に妊娠している事を伝え、また泣いてしまった。これでは学校は無理だ、そう思った私は休学届を出した。産後も通うかはわからなかったが、とりあえず出した。
 この時期、とても涙もろくなっていたと思う。家で一人でテレビを観ていると、ドラマ、ドキュメント、スポーツ、そしてニュースに至るまで、感動する場面や悲しい場面でポロポロ涙を流してばかりいた。普段はテレビでそんなに泣く事はなかったのだが、特に子供が出てくると、だめだった。これも女性ホルモンのせいなのだろう。本を読んでも感動しては泣いていた。


   両親へ挨拶

 彼の休みの日曜日、まず私達は彼の実家へ向かった。家の前で会釈程度の軽い挨拶しか交わしたことがない彼の両親と私。
「そういう(結婚を考えている)お付き合いだって聞いてますけど・・・」
と、優しい笑顔で迎えてくれたお義父さんとお義母さん。突然の妊娠報告と「結婚します」の彼の言葉に驚かないはずはない。二人ともかなりびっくりしていたが、そうなってしまったものは仕方がない。
「おめでとう。」
と言ってもらえた。私は二十一歳。彼とは十四歳離れているせいか私がまだ若いせいか、「いいの?」と言われた時は少し笑ってしまった。もっとも、私としては二十一歳の母というのはそれほど若いとは思わないが。
 そして問題の我が家。私達を迎え入れてくれた父の気楽な笑顔が、何となく心痛かった。父は私が付き合っている彼氏をただ紹介しに帰って来たとしか思っていないのだ。彼の口から報告をした時の父の顔は、一生忘れないと思う。一瞬、父の体全体の働きが止まったように見えた。やはり親としては結婚より先に妊娠したという順番が気になるだろうと、まずそれを詫び、
「結婚させてください。」
私は父がどういう反応をするのか全く想像できなかったのでビクビクして固まっていたのだが、父は驚きつつも怒ったりしなかったので安心した。
「大切なのは、君が、娘を幸せにする気があるかどうかで、結婚式どうこうよりも、その後の生活やからね。」
と説教されたが、彼の
「幸せにします。」
の言葉で結婚は認められた。「実は母は知っていた」という事のも驚いていたが、そのあたりの話をしている辺りで私はもうホッとしてまた一人で泣いてしまった。泣いてばっかりだ。ともあれ三月の末に簡単な結納をすませ、私達の婚約は調った。


   つわり   体と気持ちの変化

 婚約、そして結婚の準備。あわただしく毎日が過ぎていった。彼と私、二人の実家を行き来したり式場となるホテルへ打ち合わせに行ったり、その間もバイトに行っていた。妊娠がわかってから約一ヶ月働いたが、つわりがひどく何度もトイレに駆け込む毎日。妊娠を打ち明けていた友人はかなり心配してくれていた様子だったが、しんどい理由を上司に黙っているのはなかなかつらかった。飲食店でバイトしていたので、パスタなどの茹で上がったにおいや、チーズ、たばこのにおいがかなりきつかった。友人の話では、顔の表情が変わったと言われた。男っぽくなったとか言われたが、それは毎日のつわりのしんどさから表情が曇って眉間にシワが寄っていたのでは・・・と私は思う。しかし少し太ったような気がしていたし、肌も少しプツプツ荒れてきたし髪の毛もパサパサになった。吐き気でゲップばかりしていた。
 家や外では常にクラッカーやチューインガムを食べていた。何か口にしていないと吐き気が我慢できないのだ。つわりがこんなにつらいとは思っていなかった。ほぼ同時期に妊娠して妊婦友達となった友人は、吐き気はなくて体がだるいだけだと言っていた。祖母はご飯の炊けたにおいがダメだったらしいが私はそれはなかった。母はつわりなんてなかったと言う。人それぞれ違うものである。妊娠雑誌を読みあさり、吐き気がない人が羨ましく「妊娠中期の安定期でたいていの人がつわりから開放」という文字をただ信じ、一刻も早くその日が来ることを願った。一時は「なぜこんなにつらい思いをさせるの?」とおなかの子供にうらめしい気持ちになったりしていた。
 ある日の健診で気分の悪さをうったえると、内診で「こりゃしんどいわ。」と言われた。I先生によると、血のかたまりらしきものが胎盤からはがれて浮いているとの事。まだ胎盤が未完成な為だそうだが、「そのうちにくっつくでしょう。」と言われた。便秘気味だったので軽い薬を処方してもらったが、極力飲みたくなかったので一回だけ飲んだ。
 安定期を待ちわびる毎日。実家で一人で寝ている時など、しんどくて気分も落ち込んで声を殺して泣いたこともあった。そのつらさのせいでマリッジブルーのような気持ちだった。結婚式の準備も衣裳合わせなども、「とっても楽しくてたまらない!」とは思えなかった。


   低血圧

 バイトも辞め四月も中頃、吐き気にも慣れてきた頃また一つ問題が浮上した。問題といっても赤ちゃんは元気。母体である。私はもともと低血圧で貧血気味なのだが、赤ちゃんは鉄分、カルシウムをどんどん吸い取っていくので、出かけたりする度に倒れてしまうのである。特に電車にはこの頃乗ることができなかった。立って耐えていられるのはニ駅くらい。デパートなどでも立っているとめまいがして椅子に座りこんでしまう始末。身動きが取れなくなり一時間も座っていたこともあった。電車でもどこでも、もちろんまだ全然おなかも出ていない私は、妊娠しているとは思われない。誰もわかってくれない。I先生に「倒れるんです。」と言っても、「低血圧のせいだから、そういう時は頭を下にしてしばらく寝るとすぐ治る。」・・・外やデパートでそんな体勢できないってば。そして「通常通りの生活でいいからね。」と一言。・・・ってフラフラして普通の生活もできないんだってば!しかし妊娠中に高血圧になる方が注意が必要なのだ。妊娠中毒症になってしまう危険性があるからだ。上が80代~90代、下が40代~50代という血圧の低さを誇る私はその心配はないようだった。そして色々な検査の結果は何の問題もなく、血が浮いているといわれていた部分もなんとかくっついてきた。
 吐き気と貧血で家事もできず、そんな自分に悲しくなる日々。友達との電話が唯一の気休めだった。話している間は吐き気も忘れ元気だった。この頃からブラジャーもきつく感じ、胸が大きくなっているのがわかった。胸の大きさよりも吐き気によってアンダーの締めつけが苦しかったので下着をつけるのをやめた。



 つわり   食の変化
 
 つわりで食の嗜好が変わるというが、私は油っこいものが食べたくなった。気分が悪いくせに、ステーキが大好きなのだ。それも鶏肉はダメで牛のステーキがいい。魚はあまり食べたくなかった。大好きだったパスタも食べられない。ポテトチップスも一日に一人で一袋平気であけていた。夜中によく焼肉を食べにも行った。まだ私が食べた物がおなかの赤ちゃんに影響する時期には入っていなかったので、家事のできない私はコンビニの物を食べたり、食べられそうな物を食べ、栄養など全く気を使っていなかった。コーラなどの甘い炭酸飲料も、以前はあまり飲まなかったのにやたらと飲みたくなった。

   結婚式

 だいぶ暖かくなったなーと思い、気がつけば五月。そうこうしているうちに入籍をすませ、結婚式の準備も大詰め。おなかもほんの少し出始めていた。チャペルでの式のため牧師さんと入場の仕方などを打ち合わせていた日もまだ立っているとクラクラして吐き気がする。結局座ってイメージで練習したのだが、こんな調子では当日倒れるのでは・・・と不安がつのる。しかし衣裳室の人達もブライダルエステのスタッフも、フラフラの私を気使ってくれて、人の優しさに感謝。
 そして結婚式当日。
忙しくて楽しくて、倒れている暇などなかった。お色直しの控え室では、苦しいドレスを脱いで下着姿で寝転んだりして何とか耐えた。料理を食べる暇もなかった。母がフルーツを小さく切ってお弁当に詰めて持たせてくれていたので、それを食べていた。
 二次会が終わった時点で私の体力は限界。花束を抱えてタクシーに乗り込み、ホテルへ戻った。本当に疲れたけれど、皆に祝福されて本当に幸せな一日だった。


   新婚旅行

 結婚式の翌日からは新婚旅行である。行き先はフィジー。体調は良く、八時間のフライトも耐えることができた。でも到着後すぐに乗ったセスナ機は10分だけだったが振動と音がすごくて、おなかの赤ちゃんに申し訳なかった。いつもなら大はしゃぎしていそうな私がかなりビビっていた。やっぱり知らず知らずのうちに「守り」に入っている自分がいる。
 ホテルに着いた頃にはだいぶ疲れていたので、のんびり寝た。寝て、少し泳いで、食べて。寝て・・・星を見て、食べて、寝て・・・そんなのんびりとした旅行だった。何をするにも疲れない程度に・・・。これは妊婦の旅行の基本である。フィジーの料理は残念ながら私の口に合わなかったが、つわりの吐き気はだいぶましになっており、吐いてしまうという事もなかった。唯一、残念だったのはスキューバダイビングが出来なかった事。フィジーはハネムーンの日本人客が多く、二人手をとり合って潜るダイビングを皆楽しんでいた。妊娠中の私は一人、浜に残ってさみしかった。けれどシュノーケルだけでもたくさんの魚を見ることが出来たし、美しい南国の海を堪能できた。
 夫となった彼と六日間も旅行するのは初めてだったし、とても楽しい時間が過ごせた。
が、六日間がどうやら限界だったようだ。


   体調不良

 疲れたのか、フィジーと日本の温度差にやられたのか、飛行機内の寒さのせいか、とにかく帰国後すぐに高熱が出た。喉は痛くないが頭がボーッとする。薬を飲めないのはつらかったが病院には行かずにただひたすら安静にしていたらニ、三日で治った。大事に至らなくてホッとしたが、やはりまだ身体がだるい。つわりはまだ続いていた。
 結婚式、新婚旅行はテンションが上がっていたので、つわりのしんどさは忘れていただけだったようだ。やはり家事をするのも一苦労。二日に一回スーパーに行くだけが外出だった。それも、歩いて三分ほどの近所のスーパーに、フラフラとした足取りで倒れかけながら行っていた。スーパー内でも、押して歩くカートにもたれながらでないと、とても歩けなかった。
 そんなボロボロの時期に、スーパーでH夫妻に偶然会った。独身の頃から私と夫両方の友人であった彼らは、私のあまりの顔色の悪さにビックリしたと言う。そういえばこの頃は食欲もあまりなくて、家に遊びに来た友達に「妊婦なのにゲッソリしてる」と言われた。心配してくれた夫妻は、私を夫妻の家へ連れて行ってくれて、ご飯を作ってくれた。H婦人も妊婦。しかしパワフルな彼女はつわりもなく、妊娠全期を通してとても元気だったので羨ましかった。でも、その日少し元気を分けてもらえたような気がした。
 この頃、妊娠20週目に入ろうとしていた私は、たいていの妊娠雑誌などに「16週~19週頃に胎動を感じるでしょう。」と書いてあるのを見て少し焦っていた。いや、かなり焦っていた。妊娠中は小さなことにもナーバスになり、気になってしまう。静かにしておなかに手をあてながら、「なんで動いてくれないの?」と、心配していた。今思えば、それがこの時期に不調の原因だったのかもしれない。





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